2022年7月26日火曜日

香椎潟の歴史をたどって


 1.名島帆柱石

香陵小学校5年生の総合学習で、香陵校区の歴史について話して欲しいというオファーを頂きました。実施日は、6月29日(水)でしたので、あわてて資料集めや講話の柱について検討をしました。
「香陵」より少しエリアを広めて、万葉集にも歌われた「香椎潟」を中心に話を組み立ててみました。香椎潟とは、埋め立て前の千早、香椎浜地区にあった海です。名島神社付近の高台から今のJR線沿いの当時の海岸線を経て香住ケ丘の高台を囲んだ一帯の海が「香椎潟」でした。
海岸沿いは石垣整備されている
まず、名島海岸を歩いてみました。石垣が整備されており、その一角に3500万年のカシの木の化石遺跡、帆柱石(ほばしらいし)があります。今も9個の円柱の形で残っており、いつも波にさらされています。人間の出現は約20万年前と言われていますので、それ以前の古い古い時代の出来事です。

石垣には帆柱石遺跡の写真有

3500年前の木の化石が横たわる…信じられない昔々

【伝説】 香椎宮に伝わっている話では、昔々の軍艦の帆が折れたものと言い伝えられています。人間が存在しない時代のものが、人のつくった船の一部なんて、ありえない話ですね。でもそれだけ昔の人々の心に残っていたのでしょう

2.名島城址公園

帆柱石のすぐそば、50mほどの丘に名島城のあとがあります。戦国時代(1500年代)は立花の殿様が(この筑前の土地)を支配していました。そして名島城をつくりました。そのあとに九州を支配下にした豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、自分の家来(けらい)の小早川(こばやかわ)の殿様にこの土地を与えました。土地は約37万石(まんごく)の広さで大きな財産になりました……
関ヶ原の戦いのあと江戸時代になり、殿様は小早川氏から黒田氏になりました。しかし城が狭いので、名島城をこわして、福岡に新しい城をつくりました。これが現在の舞鶴公園(まいづるこうえん)のお城になりました。

公園内の臥龍桜、春には満開
 
【もっとしりたい】一石とは、どんな意味…一人が1年間で食べる米の量であり、その土地の広さ(一坪3.3㎡)をさす。37万石とは人口37万人の米生産、収穫ができるということ。

【歴史にもしもがあれば…】 名島城がそのまま江戸時代、明治まで残っていたら、名島、香椎浜は福岡市の天神よりもにぎわっていたかもしれないですね。

【名島城の建物は残っていた!】 名島城の石垣は福岡城築城の石垣に活用され、名島城の有名な脇門であった「名島門」は、いろんな変遷の末に、第二次世界大戦後に舞鶴公園の入口門(平和台側)の移設されています。

3.名島神社
この階段は上ると御社が見えてくる
名島城址(じょうし)公園の真下に名島神社があります。名島の地名は、一説によると「昔々、戦で小島から出陣する時に、自分の名前を名乗って乗船した」そこから「名島」という地名ができたとのこと。なお、名島城が移転されたあと今日まで、「名島神社」として地域の人に親しまれています。

4名島水上飛行場と火力発電所

翼よ、あれが博多の灯だ!名島海岸の石垣パネルから
90年前に、名島に水上飛行場が作られました。大阪、中国、朝鮮、台湾への航空路があり、有名な出来事は、世界一周でリンドバーク夫妻が立ち寄りました。
また、水上飛行場や火力発電所(下記の記載)の道路整備の一環なのか、当時として立派なコンクリート橋の「名島橋」が建設されました。まだまだ現役で頑張っています。築92年になりました。国内に新潟の「萬代橋」と兄弟橋になっています。また、名島には大きな火力発電所がありました。4本のエントツが目立っていました。高い建物がない時代で、市内の遠いところからも見ることが出来ました。70年前に発電をやめて、今は名島運動公園としていこいの場になっています。
昭和8年(1933年)撮影 名島海岸の石垣パネルから
【上記パネルの説明】 名島橋とJR線、西鉄貝塚線(現)は今のまま、名島火力発電所のエントツも見えます。国道3号線を渡って海側に行くと名島火力発電所敷地、その先の左手には森の中に名島神社が見えます。その海側が妙見島も見えます。秀吉の茶会が開かれたところです。

名島橋のサンタクロースの飾りつけ

5.香椎参道の歴史道を歩く

クスノキの勅使道(香椎宮参道)
香椎参道を歩いたことありますか?香椎宮まで両側をクスノキの常緑樹が植えてあります。冬場に葉が落ちなくても、季節感がでています。美味しそうなケーキ屋さんやレストランがありますね。約100年前(大正時代)に地元有志、約1000人を超える人が集まって植樹作業をしたそうです。また、勅使道ともいわれバス停もあります。

【香椎参道のクスノキの本数は?】一本づつ、贈った団体が記されています。地元有志の青年団や町役場など162団体が参加して165本が植えた。今では言えば、香陵校区おやじ倶楽部、あすねっと香陵(自治会一同)のようなものですか緑の回廊の始まりです。長さは約800mになります。

万葉歌碑は,香椎参道踏切の南側の丘陵地(香椎宮末社の「頓宮」(とんぐう)に建立されています。全部で3首の和歌が刻まれています。

万葉歌碑 明治21年(1888年)三条実美氏(内大臣)

大宰府の役人が都に戻る時は香椎宮に参拝してから旅路に向かっていました。この頓宮に馬をおいて香椎宮まで歩いて行ったそうです。当時から馬が旅のお供だったのは、馬の埴輪(下の写真参照)からもわかります。当時としては奈良から博多までの大変な長旅だったでしょう…

【万葉歌碑ってどんな歌?】

いざ子ども 香椎の潟に 白妙の袖さえぬれて 朝菜摘みてむ
(大伴旅人)
〈意訳〉さあ みんなで、香椎潟で服の袖までぬらして朝ごはんの海草や海苔を集めよう!
1200年前の奈良時代、この香椎参道の小高い丘陵から香椎潟の海が見えた何てちょっと不思議な気がしますね。

【万葉集とは】1200年前の奈良時代につくられた和歌集です。100年以上の間つくられた4500首の歌です。恋愛や仕事の歌などがあり当時の生活のようすを知ることができます。

6.あいたか橋も魅力いっぱい

御島崎海岸から「かしい花園」方面へ、そしてあいたか橋を渡ってアイランド、イオン香椎浜の周回約3kmコースが、御島グリーンベイウォークと命名されてます。とても気持ちの散歩コースですね。平成25年完成(2013年)完成しました。

御島グリーンベイウォークの一部のあいたか橋
【あいたか橋の由来は…】 博多弁と「会いたい」、「愛するホークス、鷹(たか)」から名前を取ったと言われています。

7.御島崎の由来は

香椎宮の末社、御島神社は、昔の香椎潟、今のグリーンベイウォークの海の中にある。昔は大きな岩礁の上にあった。その神社名が、この地域の地名になりました

香椎宮末社の御島神社 岩礁の上に建つ

8.香椎第一中学校に海岸校舎?  香椎潟の海だった!

皆さんが香椎第一中学校に通学しますが、昔は「海岸校舎」と言われていました。東郵便局側の校舎は海岸に面していたので、その名前がついたようです。また、御幸公園前交差点からローソンまでの道路沿いに「防波堤」が残っています。是非、確認してください。

御幸公園前交差点の公団社宅前の防波堤の残存

【本当に海だった!】 100年前の海岸線は、今の名島橋あたりから、ずっと海岸沿いでした。今のIR線や国道3号線付近が海岸線でした。上記の御島神社も海岸線から沖合1kmの海の上でした。香陵小学校は、香椎潟の真ん中の海の中でした。

9.香陵の歴史は1200年もあるのだ!

香陵校区だけでは30年の歴史しかありませんが、隣の名島や千早、香椎の歴史を振り返ると、1200年もの歴史があります。万葉集に歌われた香椎潟や、香椎宮は1200年もの歴史があります。香椎第一中学校も75年の歴史があります。歴史を振り返ることは、自分たちの未来を考える事になると思います。

平成4年(1992年)誕生したばかりの
香陵校区の航空写真 まだ空き地が見える


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